2025年1月
最近はSNSも筆マメじゃないし、アピールする目的でも使ってないんだけど、
でも、スルーできないので、記録として記します
お悔やみコメントはご辞退させていただくとともに、リアクションもお気遣いなく
今月、父が他界し、5人家族だった我が家は、4人になりました
家族のバランスって、心の支えというか、存在だけで成立してたんだなと痛感してます
新聞のお悔やみ欄、訃報の案内状、基本はもちろん紙なんだろうけど、Webにしても、案内状のWeb版という、ま、そりゃそうだよな、と
そこで、やっぱり、Web屋ならば、やれることあるだろうと、速攻で動画を作り、即席でWebページを作り、自分なりに形にして仕上げた
目的は、訃報を知らせることだけではなくて、どんな人が、どんな風に生きたか(ぜんぜん足らないんだけど)
やっぱり、生きた痕跡って、今の時代、誰でもかなりリアルに遺せるはずで、よく残ってましたね、じゃなくて、そもそも、そのつもりで残してるから、
画像にしても、とくに動画、どんな表情で、どんな喋り方で、どんな歌声で、って、
昔なら、役者さんや芸能人しか残せなかったものが、今は、そのポケットに入ってる夢のマシンでできてしまう
これを、15年くらい前から、どこに行っても力説してたわけで、だからこそWebメディアの可能性と重要性を具現化するために、Web屋(発信させ屋)になったし、スタジオ屋にもなったんだ
それを形にしたのが、父専用のページで、真っ先に思い出ムービーも作った
葬儀に来てくれた方に少しでも観てほしくて
そして、奇跡的に動画で残せた葬儀での『お別れの言葉』
葬儀って、もちろんクローズなものかもしれないけど、今回、自分は反省した
どこに行ってもとにかくカメラを回してる自分が、父の葬儀では、ビデオカメラを回さなかった
だけど、やっぱり回しておくべきだったと、猛省
なぜかといえば、あの人、来てた?どこに座ってた?とか、ぜんぜん、その場では掴みきれなかった
ぜんぜん配慮が足らなかった
それを確認しておく意味でも、普段のセミナー同様に、記録は必要だったなと反省した
あとは、やっぱり、事務的な進行だけでなく、親類の生きた言葉
言葉って、発した瞬間から、空中を飛んで消えてしまう
だからこそ、可能な限り、残しておく必要があると思った
生きた言葉は、文面では掴めない
それこそ、そこには『感情』が乗る
魂が乗る
これって、残そうと思わなければ残せないし、振り返ることもできない
これは故人への言葉を残すというより、それこそ、これを残すこと自体が、自分が生きた証だし、子供たちにも、カッコ悪い父ちゃんの姿を、将来、必ず迎える、父ちゃんがその父へと送ったメッセージを残すべきだなと(将来、見返したときには、違った受け取り方をすると思う)
写真ももちろん大事だし、それ以上に、動画を残せることの意義は半端なく大きい
動いてる姿
喋り方
声色
歌声
笑い方
すべてがビジュアルとして残せる
もう、もはや、ドラえもんの世界どころではない
とにかく、たまたまでなく、意図的に残して、後世に伝えていきたいと思うし、後悔しないように誰しも動いてほしいし、
あれからというもの、生まれた瞬間から死に向かって生きてるんだ、と、死生観みたいなものを、すごく意識するようになった
毎朝、起きると、あ、今日も生きてる、と
いつまでも若くないし、とにかく、GOALからの逆算
そう考えると、モタモタしていられない
今まで人の痛みなんて、まったく分かってなかった、と、想像を絶する経験は、実際に体感しないと分からない
と、こういうことを、どうしても自己開示してしまうんだけど、これも自分の記録であり、自分が存在してる証として残します
お線香をあげに来てくれた関係者の皆様にも感謝しかないです
本当にありがたい
まだまだここから未体験のことを家族で取り組んでいきます
家族の存在も本当にありがたい
https://haruki.nakata.tokyo/